2011年3月18日金曜日

東北を支えたい

私は今回、東北で発生したことが、とても悲惨ことだと感じています。一日も早い復興を祈るのは言うまでもないし、これまでにお世話になった人へは身を尽くして応援をしなければなりません。

どのくらいお世話になったか、次の実体験を読んで下さい。助けないわけにはいかないのです。実体験は岩手県ですが、東北はどこもこんなです。絶対に支えなければなりません。


---あれは2007年の秋
ちょうど岩泉線と山田線からキハ52が引退する直前でした。根っからの鉄道好きだった私はこの勇姿を記録するべく岩手県へ通いました。とくに当てもなく、また鉄道利用だったので盛岡をベースに、どうにか活動していたのです。

山田線のハイライトはやはり山間部という思いがありました。駅名で言えば茂市から区界の間です。しかし人家が少なく、また熊の出没も多いことで有名なこの地域。区界は撮影に向きそうな場所では人家がなく、熊のリスク。以後106急行バスにてロケハンするとしばらく人家が少なく、万が一のことを考えると撮影が難しそうな区間が続きます。

区界から峠を下っていき、川内を過ぎたところ箱石という集落があります。線路脇が田畑になっていて人家も多く、食堂があるのでこれはいいという判断をしました。何日も106急行で箱石へ行き、そのたびにお昼は食堂へ行っていました。そこで出会った地元の人。これがすべての始まりでした。


---見ず知らずの人を泊める
こんなさびれた食堂でカメラを持つ人なんて珍しかったのでしょう。数回の話をしていくうちに向こう側も興味を持ち、そしてこれは岩手の宝です。見ず知らずの私を家に泊めてくれるというのです。毎日盛岡からでは大変でしょうというのがその理由。たしかに大変でしたが、それでもいいのか。

次に撮影に出かける前、おそるおそる電話をかけるとうれしそうに、来てくれるのか。じゃあ準備して待っているから。と。これは行くことが私のある種、義務なんだなと思いました。

さてそれまでは盛岡まで戻る必要があるので夕方の列車を撮影したら早々に戻らねばなりません。しかし箱石の集落の中で泊めてもらえるので駅でよければ終列車まで撮影ができます。もちろん撮りました。今までの環境では撮れなかった夕方、そして夜の写真を。


---フォトコンテスト受賞
ここで撮った写真は、これもまた偶然見つけた2008年度の「いわて・平泉観光キャンペーン」の一環であるフォトコンテストへ応募しました。これが入選。


吉報が届くやいなやすぐさま、泊めてくださった家にお礼に行きました。

フォトコンテストの受賞とは別に箱石の集落では「夕方の写真」をとても気に入ってくれました。「箱石駅」という看板が鮮明に記録されていたため、地元では喜ばれたとか。


泊めてもらったお宅から、遠慮がちに何枚かくれないかと言われたので喜んで送りました。泊めてもらったことで撮れた写真がコンテストに受賞、さらに泊めてもらった人を幸せにできてうれしかった。


---すばらしい岩手との付き合い
その後、キハ52が引退したこともあってご無沙汰気味になっていた岩手。でも受賞の吉報を伝えた翌秋は泊めてもらった家の人の親戚、宮古の港からとてもいい秋刀魚をたくさんもらいました。食べきれないくらいいっぱい送ってもらって、揚げたり焼いたり冷凍にしたり。

またちょうど11ヶ月ほど前のこと。昨春は電撃訪問しました。間隔が大きく開いてしまって申し訳なかったのですが、それでも先方はとっても喜んでくれました。そして山菜をたくさん送ってもらってコシアブラにタラの芽、ウドやワラビもあったかなあ。いろんなものをもらいました。

東京ではたいていのものがお金で買えると思っている人は多いようです。でもあんな目の透き通ってどんな調理でも生臭くならない魚。あるいはすごく太いタラの芽は買えません。人情あふれる集落、海の幸、山の幸。


---そして今
こんな岩手、また東北が震災で落ち込んでいます。箱石は宮古と盛岡の間。おそらくは壊滅的な被害はなかったとは思います。でも小規模な被害はあるかもしれません。それに親戚が宮古近辺にいるはずです。でもみんなが無事かどうかは、わかりません。


---これから
まず当面は復興の邪魔をしない。その後、落ち着いてきたらできる限りのことすべてする。具体的な案はこれからじっくり考えていきますが、支えてくれた人たちへ恩返しをしなければならない。たとえば顔を見せることで元気を与える。物だけじゃなくて心で支えていく。元に戻ることはなくても次へ進めるように、そのきっかけとなれるように努力する。安易に「がんばれ」なんて言わない。「"一緒に"がんばろう」と声をかけていく。

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